SSブログ
前の3件 | -

9

電車の中で、真由は何度も時計を見ながらイライラしていた。
喋り出すとなかなか止まらない佳代に付き合っているうちに、説明会の時間が迫っていたので、その場に自転車を置いて路面電車に飛び乗ったのだが、電車はノロノロとしか進まず、このままでは遅刻しそうだった。
といって、佳代に腹を立てているわけではなかった。時間を気にして、そろそろ切り上げなくてはいけないと思っていながら、それを口に出して言えなかった自分に腹が立って仕方なかった。
遅れて入ったら恥ずかしいよね。受け付けてもらえないかも知れないし。まずったなあ。
ようやく大学前の電停が近づいたので、真由は立ち上がり、出口に向かって歩き出した。とその時、運転手が急ブレーキを踏んだ。よろけた真由は、運転席の後ろの目隠しになっている広告版に手を突いた。
信号を無視して歩行者が渡ろうとしたようだ。その間に信号が変わり、結局電車は電停の手前の交差点に釘付けになった。信号待ちの間、真由のイライラと不安はピークに達していた。
信号が青になり、ようやく電車は電停に着いた。真由は電車を飛び降りると、歩行者信号が変わるのももどかしく、キャンパスに向かって駆け出した。
今何分かな、と時計を見ようとして、真由は抱えていたバッグに血が付いているのに気がついた。慌てて手を見ると、右手の中指が切れていた。傷が浅くて痛みがなかったので気づかなかったようだ。
いつの間に・・・電車の広告に手を突いた時かしら、それとも、バッグの金具か何かで切っちゃったのかな。
とにかく、どこかで手を洗わなきゃ。
真由は近くのトイレに入った。
洗面台の前に立ち、ハンカチを取り出そうとした時、ジャケットにも血の染みを見つけた。
「ウソ・・・」
一瞬、頭の中が真っ白になった。急いで手を洗ったが、大した傷ではないのに血はなかなか止まらなかった。指にティッシュを巻きつけて、今度はジャケットの染みを落とそうとしたが、こちらもなかなか取れない。
真由は泣きそうになった。すぐに家に帰って洗濯しないと、このまま染みが残るだろう。それに、絆創膏を持っていないので、またどこかに血を付けてしまうかも知れない。
もう一度時計を見た。説明会の開始時間をもう10分も過ぎていた。
今から行っても、もう駄目かも。
奨学金が受けられなかったらどうなるか、想像もできなかったが、今から行って掛け合う勇気も力も真由には無かった。指と服のことで頭がいっぱいだった。
真由はトイレを出て、とぼとぼと電停に引き返し始めた。

自転車を取りに戻って、アパートに帰り着いた時には、午後7時近くになっていた。
このまま寝ようかと思ったが、おなかが空いてきた。放っておくと気分が悪くなりそうなので、何か食べ物を買いにもう一度出ることにした。
電車通り沿いの店は、閉店するところだった。外食は嫌いな真由は、コンビニに入ることにした。コンビニの弁当や惣菜も嫌いだが、贅沢は言えない。おにぎりとサラダを買って帰った。
アパートの近くで、公衆電話から実家に電話を掛けることにした。部屋にはまだ電話が付いていないのである。母親からもらったテレホンカードを入れて番号を押した。
「大友でございます」
「もしもし。お母さん?」
「あら、真由。昨日は電話くれなかったじゃない」
「ごめんなさい。忘れてたの」
「困った子ね。ちゃんと学校行ってる?」
「うん」
「ご飯も食べてる?」
「うん」
「あ、ちょっと待ってね」
母はそういうと、電話の向こうで
「お父さん、真由よ」
と父に話しかけているようだった。今度は父が電話に出た。
「元気か」
「うん」
「困ったことがあったら、いつでも言いなさい」
「うん、分かってる」
「どうだ、一人は。寂しくないか?」
「大丈夫」
「そうか。じゃあ、お母さんに代わるぞ」
また母に代わった。
「もしもし。変わったことは無い?」
「うん、別に」
「体には気をつけるのよ。ちゃんと食べて、寝て」
「分かってるって」
「今、どこから掛けてるの?」
「アパートの近くの公衆電話」
「周りは明るい? 夜だから、気を付けなきゃ駄目よ」
そう言われて真由は周りを見回した。急に不安に襲われた。
「明日も電話してよ。コレクトコールでいいから」
「分かった」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
受話器を置いてカードを取ると、真由はもう一度見回して、怪しい人がいないのを確かめてから、アパートへ駆け込んだ。


nice!(0)  コメント(1) 

8

窓から差し込む朝日で目が覚めた。しかし低血圧の真由はすぐには起き上がれない。
布団の中で寝返りを打ったり、目をこすったりしながら少しずつ頭を働かせた。
枕元の目覚まし時計を見ると、午前7時半を差していた。
「今日も起きれた」
真由は朝が苦手であった。家ではいつも、親に起こされないと自分では起きられなかった。一人暮らしで唯一の心配が、朝寝坊だった。
「このままカーテン付けないほうがいいのかな」
窓にはまだ、カーテンが掛かっていなかった。窓の外は、大家さんの家の壁で、誰かに覗かれたり、漏れた明かりが迷惑をかける懸念は無かった。でも、カーテンの無い窓というのは、何となく不気味で、抵抗があった。
それから、ゆっくりと体を起こした。
昨日の疲労感がまだ残っていた。肩凝りもひどかった。人に言っても信じてもらえないのだが、真由は小学生の頃から肩凝りに悩まされていた。
顔を洗おうと流しに向かって歩き出した時、鼻の中を何かが通るのを感じた。あっと思った時には、スーッと流れた鼻血が、ポタッと布団の上にこぼれていた。真由は慌ててティッシュを探して、1枚で鼻を押さえ、もう1枚で布団にこぼれた血を拭いた。白いシーツの上に落ちた血は、既に染みになっていた。真由はため息をつきながら、ティッシュを丸めて鼻に詰め、もう一度横になった。
「あ、夕べ、電話するの忘れてた」
お母さん、心配してるかな。今日は忘れずに掛けなくちゃ。
寝起きに鼻時が出るのは珍しいことではないので、動揺はしなかったが、朝から気分はすぐれなかった。

「おはよう」
佳代がにこやかに歩み寄って来た。
「おはよう・・・」
「どうしたの? 元気ないじゃん」
「ちょっとね。疲れてるの」
真由はベンチに腰掛けたまま答えた。
「もう五月病?」
「そんなんじゃないけど・・・」
佳代は真由の隣に座ると、真由の額に手を当てた。
「熱は無いみたい。環境の変化について行けてないのかもね」
まるで先輩のような佳代の口調に、真由は少々むっとした。
それくらい、分かってるわよ、と思ったが、口には出せなかった。
「祈ってあげるね」
と言うと佳代は、真由の手を握り、人目も憚らずにその場で祈り出した。囁くような声ではあったが、多くの学生が行き来するロビーのベンチで、女の子が二人、手を取り合っているのは、傍目には奇異に映るのではないかと、真由は気が気でなかった。動悸が激しくなり、佳代の言葉は全く耳に入らなかった。
「・・・イエス=キリストの御名によってお祈りします。アーメン」
ようやくそれだけは聞き取れた。慌てて
「アーメン」
と真由は続けた。背中に汗をかいているのが分かった。
「もう大丈夫」
佳代はそう言って、真由の背中をポンと叩いた。
「あ、ありがとう」
やっと少し落ち着いて、周りを見回したが、誰も彼女たちのほうを見てはいなかった。
2コマ目の受講手続きが終わり、昼食まで暇を持て余しているところであった。2人はしばらく、黙ったまま並んで座っていた。
「ちょっと訊いていい?」
真由は意を決して切り出した。大袈裟な表現のようだが、自分から話しかけるのは真由にとってそれくらい難しいことだった。
「なあに?」
「昨日の憲法の授業で、M先生が『天の神様』とか言ってたでしょ? 私、何だか宗教をバカにしてるように聞こえて腹が立ったんだけど、中西さん、平気な顔してたから、私って変なのかなって気になって・・・。何とも思わなかった?」
「ああ、あれね。最初は面白いこと言う人だなって笑ってたんだけど、後から考えると確かにバカにしてるなって私も思った。だから全然変じゃないよ。その場ですぐそう感じられたのって、逆にすごいと思う。私、鈍いから」
「そんなこと・・・」
「それでね、真由と別れたあと、一人で祈って、これは黙って見過ごしちゃいけないって神様に示されたから、話に行ったの」
「話にって、M先生の所に?」
「うん。そしたらね・・・」
佳代は一旦言葉を切って、ちょっと笑ってから話を続けた。
「以前にも抗議を受けたことがあるんだって。分かっててわざと言ってるのよ。『抗議しに来るような骨のある学生にこそ、僕の講義を受けてほしい』って言ってたわ。私も見事に乗せられたってわけ」
佳代の話を聞きながら真由は、佳代に褒められてちょっと得意になっていたのを恥ずかしく思った。
「結局受けさせてはくれなかったけど。まあでも、私一人だけ受ける気も無かったから、いいけどね」
「一人だけって?」
「抽選ならともかく、そういうので受けさせてもらうのって、抜け駆けみたいで。真由も一緒なら考えたかも知れないけど」
「私は別に・・・せっかくのチャンスだったんだから、受ければよかったのに」
「だから、結局受けさせてもらえなかったんだってば」
「あれ、そうだっけ?」
「人の話、ちゃんと聞いてる?」
「ごめん」
佳代は本気で怒ってる様子ではなかったが、真由はバツが悪くて、次の言葉が出てこなかった。
「外に出ない?」
気を遣ったのかどうか、佳代が誘って、二人は立ち上がった。
校舎を出ると、大学構内を貫く広い通路があった。大学のシンボルであるフェニックスの並木が、南国の情緒を漂わせていた。
「いい天気ね」
空を見上げて佳代が言った。
「うん・・・」
「こんな日はのんびりと散歩でもしたいな」
「そうね・・・」
「ねえ、今日の放課後、空いてる?」
「え?」
まだ先程の気まずさを引きずっていた真由は、一瞬面食らってしまった。
「一人で歩くのはつまんないし、もし迷子にでもなったら心細いから、一緒に行かない?」
「ええ・・・5時から奨学金の説明会に行くけど、それまでなら」
「じゃあ、4コマが終わったら行こう。憲法取るんでしょ?」
「ええ」
「決まり。さてと、生協にでも行こうかな。真由は?」
「私はもう少しここに」
「じゃあ、後でね」
そういって佳代は、すたすたと歩いて行った。
真由は木陰に腰を下ろし、もう一度空を見上げた。
神様から示されるって、どういうことなんだろう。中西さん、神様の声が聞こえるのかな? いつか訊いてみよう。


nice!(0)  コメント(0) 

7

家に帰ると真由は、カバンを放り投げて畳の上に寝転んだ。一日の疲れがどっと出た。
ぼんやりと天井を眺めながら、今日一日の出来事を思い巡らしていた。
ふと、空腹感を覚えて、真由は思考を中断した。
「夕飯、何にしようかな」
そう呟いてから、買い物に行かなければならないことを思い出した。今日からは、全て自分でしなければいけない。今までだって、一人でご飯を作ることも、掃除や洗濯も、できることはできたが、家には初めから何でも揃っていたし、彼女がする前に母親がやってくれることのほうが多かった。けれども、今日からは誰も手伝ってはくれないのだ。
「帰りに寄ればよかったなあ・・・」
途中、何軒か店を見かけたが、どの店が何が安いのか、住み始めたばかりの真由には皆目見当が付かない。
「とりあえず、今日使う物だけ買おう」
財布と自転車の鍵だけを持って、真由は家を出た。

何とか食事を済ませると、今度はお風呂である。真由の下宿にはお風呂が無かった。
近所の銭湯の場所は、昨日、両親と一緒に確かめてあった。歩いて5分ほどで、迷う心配は無かった。が、夜一人で行くのは、少し心細かった。
「さて、と」
何を持って行ったらいいのだろう。石鹸とタオルと、洗面器もいるのかな? パジャマは変だよね。じゃあ、今着てる服をまた着て帰るか。でも下着は替えなきゃね。
そういえば、料金を確かめてなかった。財布ごと持って行って、大丈夫かな?
用意を済ませると、真由は外に出た。もうすっかり暗くなっていた。
銭湯や温泉には、家族や友人と行ったことがあったが、一人で行くのはもちろん初めてだった。だんだん不安が広がってきた。大したことでなくても、すぐ緊張してしまうのである。
銭湯に着いた。入り口の前で、足が止まった。しばらく躊躇して、覚悟を固めて暖簾をくぐった。靴を脱いで下足箱に入れ、戸を開けた。
中は薄暗かった。入ってすぐの所に番台があって、おばさんが座っていた。
「いくらですか?」
と真由は訊いた。
「髪洗う?」
「え? ええ」
「320円」
真由は千円札を渡した。
男湯との仕切りの壁の上に、テレビが置かれていた。壁には大きな鏡。扇風機が回っていた。絵に描いたような、昔風の銭湯だった。ロッカーの鍵は、簡単に開きそうだった。
貴重品は持ってこないほうがいいわね。
空いたロッカーを見つけて、真由は服を脱ぎ始めた。

銭湯の客は、思ったよりも多かった。真由は、洗面器で湯船のお湯をすくって、体を流した。そしてお湯に浸かろうとした。
「ちょっと、あんた」
中にいたおばさんに話しかけられた。
「はい?」
「体洗ってから入りなさい」
「あ、すみません」
真由は恥ずかしくなって下を向いた。そして、急いで洗い場に行った。
体と髪を洗って、再び浴槽に戻ると、先程のおばさんがまだいた。
「あんた、学生さん?」
「ええ」
「最近の若い子は、お風呂の入り方も知らないね」
おばさんは笑いながらそう言った。言い方に嫌味なところが無いからか、真由は少しも気に触らなかった。
「髪、お湯に浸けちゃいけないよ」
と言われて、真由は慌てて髪を上げた。家では一度も気にしたことが無かった。
この際だから、髪を短く切ってしまおうかな。
真由は足を伸ばしながらそう考えた。
広い湯船は気持ちが良かった。ちょっと熱めのお湯も、真由にはちょうど良かった。
5分ほど浸かって、真由は湯から上がった。
体を拭いて、脱衣所に出ると、例のおばさんからコーヒー牛乳を渡された。
「飲みなさい」
「え? あ、いえ、いいです」
「遠慮しないで」
「そうですか? すみません、ありがとうございます」
真由は恐る恐る口を付けた。風呂上りとはいえ、冷たい牛乳を飲むとおなかが痛くなりそうなので。それに、コーヒーも苦手なので。
「アパートにお風呂無いの?」
「ええ」
「じゃあ毎日来るのね」
「そうですね」
「銭湯はいいわよ。風呂付きの高い部屋借りるより、よっぽどいい」
「そうですか」
服を着終わると、真由は残ったコーヒー牛乳を飲んだ。ビンだからか、味は悪くなかった。
「ごちそうさまでした」
「じゃあまたね」
おばさんは、番台のおばさんにも挨拶して、帰って行った。真由も、牛乳ビンを返すと、家に帰った。


nice!(0)  コメント(0) 
前の3件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。